“Je est un autre.” (私は、他者である)
Arthur Rimbaud
この言葉の意味を、私は今、痛いほど理解しています。
本来の私は、極めて内向的で論理的な人間です。
感情を爆発させるよりも、事象を分析し、適切な言葉を選び取ってパズルのように組み立てることを好む。
日本語を話している時の私は、凪いだ海のようにフラットです。
抑揚は少なく、感情の起伏もあまり表に出しません。
しかし、ひとたび脳内のチャンネルを切り替えると、そこにいるのは「見知らぬ私」です。
10の言語を生きる私は、一人でありながら一人ではないのです。
The Switch – Surrendering to the Flow

言語を変えること。
それは単に単語を置き換える作業ではありません。
その言語が持つ独自の「Flow(波)」に身を投げ出し、自分自身を溶け込ませる行為です。
波の形が違えば、乗りこなすための姿勢(スタンス)も変わる。
私の脳内には、明確に異なる「私」たちが住んでいます。
English – The Surfer on the Beat

日本語の静寂とは対照的なのが英語です。
この言語を話す時、私は「波乗り(Surfer)」になります。
英語特有のうねるようなリズムに乗るためには、沈黙は許されません。
“You know”, “Like”, “Well”…
フィラー(つなぎ言葉)や相槌をパズルのピースのように埋め込み、止まることなく波に乗り続ける。
そのグルーヴに身を任せていると、不思議と性格まで少しラフになり、普段なら言わないようなダイレクトな冗談や、少し汚いスラングさえも口をついて出る「軽い私」が顔を出します。
French – The Poetic Logician

最も心地よく、私の本質(Core)にピタリとハマると感じるのがフランス語です。
フランス語は極めて構造的でロジカルな言語ですが、同時に音の響きはどこまでも芸術的。
私の元来の「論理的思考」と、秘めたる「美意識」が、無理なくリンクする感覚があります。
ここでは私は、理性的でありながら、世界を少しロマンチックに描写する「詩人」になれる。
落ち着いたトーンのまま、最も解像度高く自分を表現できる場所です。
Italian & Spanish – The Dancer under the Sun

イタリア語やスペイン語に切り替えた瞬間、脳内の照明が明るくなります。
ラテン特有の開放的なノリ。
まだ流暢とは言えませんが、これらを話す時は「歌う」あるいは「踊る」感覚に近い。
内向的な私の中にある、普段はなかなか開かない「陽気な扉」がこじ開けられる感覚。
ジェスチャーが大きくなり、声のトーンも自然と上がる。
そこには、太陽の下で笑う私がいます。
Slavic Languages – The Actor in the Shadow

対照的なのが、ロシア語、ウクライナ語、そしてクロアチア語といったスラヴ系の言語たちです。
これらには、いい意味での「妖しさ」や、腹の底に響くような重厚なグルーヴがあります。
このフローは私の素の性格とはかけ離れているため、ここではあえて「役者」になります。
ネイティブのモデルを設定し、その低いトーンと独特の子音を徹底的にコピーする。
その強い響きに憑依することで、普段の私なら躊躇するような断定的な言葉さえも、この音の響きが言わせてしまうのです。
The Mechanism – Why Do We Change?

なぜ、ただ使用する言語を変えるだけで、これほどまでに人格が変容するのでしょうか。
私はこれが単なる気のせいではなく、言語そのものが持つ「3つの引力」によるものだと分析しています。
1. Cultural OS (文化というOS)
言語は単なる記号ではなく、その国の文化や歴史そのものです。英語を話す時は「個」を主張するアングロサクソンの文化OSが、日本語を話す時は「和」を尊ぶ文化OSが脳内で起動します。アプリ(言葉)を変えれば、OS(振る舞い)も強制的にアップデートされるのです。
2. The Physicality of Sound (音の物理性)
声のトーンや響く場所が変わる影響は無視できません。英語やロシア語は、日本語よりも低い周波数や腹式呼吸を多用します。物理的に低く太い声を出すことで、自分自身が「強く、落ち着いた人間である」という自己暗示(フィードバック)がかかるのです。
3. Grammar directs Thought (文法という羅針盤)
文法構造は、思考の順番を決定づけます。例えば英語は “I love you” (S+V+O) のように、まず「誰が」「どうする」という結論を急ぎます。この構造に沿って思考することで、性格もおのずと結論急行型、つまり「ダイレクトで論理的」なものへと矯正されていくのです。
The Mask or The Face? (それは仮面か、素顔か)
この感覚を初めて覚えた時、私は戸惑いました。
英語で陽気に振る舞う自分や、ロシア語で強い口調になる自分。
これは一種の「演技(Fake)」ではないのか? 無理をしてキャラを作っているだけではないのか?
「英語を話す私は、嘘をついているのだろうか?」
多くの多言語学習者が突き当たるこの問いに、今の私は明確に「No」と答えます。
それは演技ではなく、「適応」なのです。 郷に入っては郷に従うように、言語に入っては、その言語のリズムに従う。
そのフローに完全に身を委ね、溶け込んだ結果として表出する人格は、まぎれもなく私の一部なのです。
The Prism – Coloring the Invisible

人間という存在は本来、多面的で複雑なものです。
しかし、単一の言語(私の場合は日本語)という照明だけでは、照らし出せる角度に限度がある。
論理的で静かな私しか見えないのは、光が一方向からしか当たっていないからです。
多言語学習とは、自分という無色透明な原石に、様々な角度から光を当てる行為なのかもしれません。
英語という光が当たれば「陽気さ」が、フランス語という光が当たれば「詩的な理性」が、スラヴ語という光が当たれば「隠れた強さ」が屈折して現れる。
言語とは、プリズムである
その10色の光の中に浮かび上がるすべての私が、本物の私。
七変化を楽しみながら、私は今日もまた、新しい波の中へと溶けていくのです。


